2019年10月6日日曜日

ミュンヘン オクトーバーフェストはビールだけじゃない! 2

オクトーバーフェストの伝統的アミューズメント第二弾。ドイツのオモシロ懐かしい遊園地文化を体感してください!

ベルトコンベアとすべり台 Toboggan
これは、危ないんじゃないの?と同僚のDからこのアミューズメントの話を聞いた時には思いました。

写真を見てください。左側に乗場があって、右側にすべり台つき塔がありますね。で、何が危ないかというと、乗場と塔を結びつけている部分が危ないんです。
この部分、ベルトコンベアのようなベルトの上に乗っかって、すべり台の塔までガーと一気に登ります。このアミューズメントを楽しむ人たちは、世界一のビール祭りの名にふさわしく、例に漏れず ほぼ “酔っぱらい” 。そんな人たちが、ベルトコンベアに乗ると、スッテンコロリン、スッテンコロリン、と転がりまくります。その酔っぱらいがジタバタしているのを端から見ている人たちが笑い転げる、というちょっと悪趣味なアミューズメント。ベルトから降りると、そこから階段を登って頂上からすべり台で降りてきます。
でも、これ85年も前からあるアミューズメントなので、そんな大きな事故は起こってないんでしょうね。転んだり、ジタバタしている人にはすかさず待機している補助員が助けに入るし。
ブレイブハートな息子たちはチャレンジしたものも、自分はパスしました。息子たちいわく、「めっちゃベルトコンベアは早かったよ」、「ジェットコースターみたいな体感速度で、立っているから新鮮」、「塔からの景色は壮観」、「すべり台もコースから飛び出しそうでドキドキしたけど、クルクル回って面白かった」とのことでした。
大人5ユーロ、子供140センチ以下3ユーロ
酔っぱらい制限なし

射的 Schiessbude
これは、前年はまって、今年も再度挑戦です。ちなみに自分はやりません、長男だけです。
射撃の歴史は予想どおり古く、1840年のオクトーバーフェストにはすでにあったそう。1870年には現在のような屋台が登場。
射的には色々な種類がありますが、最初に紹介するのは、もっとも標準的な射的。特徴としては、的が素焼きのタイルでできている、ということです。命中するとパンと破裂するので、命中しているかどうか一目瞭然。その代わりといてはなんだけど、15発10ユーロ。たっけーー。


息子は15発中、14発命中させ、景品は。。
ぬいぐるみは欲しくないから、という理由で、何と、チュッパチャップス8本。ちょっと大人的には呆気にとられる景品ですが、撃つことに意味があるんだと自分自身を納得させます。

一方、次に紹介するのは、的が船。船の真ん中の的に弾が命中すると、船がパタン、と倒れます。Oide Wieseという3ユーロ払って入場することができる、昔のオクトーバーフェストを再現したエリアにあります。

これも、同じお値段、息子の命中率も95パーセントくらい。
他にもダーツで風船を破裂させるゲーム、空き缶を崩すゲームなどがあります。挑戦してみてくださいね。
射的 15発10ユーロ

2019年10月3日木曜日

ミュンヘン オクトーバーフェストはビールだけじゃない! 1

世界最大のビール祭り、今年で186回目を迎えるオクトーバーフェスト。9月後半の週末から始まり、約二週間、世界中からビールの祭典を楽しむ観光客で賑わいます。600万人!?が世界中からやってくる、とのことですが、本当かよ??ちょっと耳を疑いますね。
しかし、しかーし! ビールを飲むだけが、オクトーバーフェストの楽しみ方ではないのです!会場にはもちろん巨大なビアホールが立ち並んでいますが、同時にそこは遊園地と化し、ジェットコースター、観覧車からお化け屋敷と楽しいアミューズメントが目白押し!今回は、日本人にはあまり馴染みのない、しかし、体験してみると、とっても面白い、そして伝統的なアミューズメントを幾つか紹介します。是非、みなさんもビールを浴びるように飲んだあとに、もしくはビールを飲む準備体操として、これから紹介するアミューズメントを体験してみてください。

悪魔の円盤 Teufelsrad
今回、一緒に行った日本語学校T先生の旦那さんでミュンヘン育ちのAさんの一押しアミューズメントが、この「悪魔の円盤」。すごい面白いんだよ、これが!

テントの中に直径10メーター位のクルクル回る円盤があって、その上にどれだけ長い間、座ってられるかっている結構単純な参加型ゲーム。円盤の両脇には観客席が設置してあって、円盤からはじき飛ばされる人々を見ながら楽しむ事もできます。

また、アナウンスのオッチャンの毒舌コメントや仕切りもこのアトラクションの目玉。
最初に、オッチャンが、例えば
「じゃぁ、10歳から15歳までの女の子!」
と、ゲームに参加できる人の条件をアナウンス。すると、イッセイに自称、条件をみたす人々が、円盤の中心めがけて飛び込みます。中には条件に当てはまりそうもない人々もチラホラ。そうすると、すかさずオッチャンの突っ込みが入ります。
例えば、10歳までという条件なのに、どう見ても15歳くらいの女の子が円盤の上に座っていたりすると、
「ちょっと、そこの赤いスカートのおじょうちゃん、立ってみな!」
「10歳には見えないな、本当に10歳?放射能に汚染されたもの食べて大きくなっちゃったのかな」
など、ちょっと毒がありすぎなコメントをぶちかまします。


このアトラクションでは、とにかく円盤の中心をとることが、一番大事。端に座っていると、遠心力で早い段階で、はじき飛ばされてしまうから。だから、我先にと、人々が円盤めがけて殺到するのです。
中央に陣取ったからといって、まだ油断は禁物。人数が残り少なくなると、今度は天上からつり下げられたボールや、円盤の外から投げ入れられる綱が、人々を円盤からはじき出そうと襲いかかってきます。多くの困難を乗り越え最後まで円盤に残った人には、観客から大きな拍手や、オッチャンからの賛辞(もしくは毒舌コメント!?)が送られます。そして、最終的に円盤からはじき出されるまで、ロープとボールが総攻撃を仕掛けてきて、最後の人がはじき飛ばされたらゲーム終了。次のゲーム再開、となる訳です。


1910年からあるので、もう100年以上あるこのアトラクション、ミュンヘンっ子の間でも、これをやんなきゃ、オクトーバーフェストを楽しんだことにならないね、と言われているそう。もはや、オクトーバーフェストに行ったらやらなければいけないアミューズメントと言えますね!



悪魔の円盤入場料:大人5ユーロ、子供3ユーロ
一回入場したら、時間制限や回数制限なく、悪魔の円盤を楽しむ事ができる。

ノミのサーカス Flohzirkus
たびたび、オクトーバーフェストといえばあれ、見た?と語り種になるノミのサーカス。今まではどこにあるのか気づかなかったし、探す事もしなかったけれど、今年は行ってきましたよ!

サーカス会場は小さな小屋で、20人ほどが観覧可能。ノミたちの活躍する舞台を取り囲んで席が並んでます。
何が起こるんだろう、そもそもノミなんて見えるンかいな?とドキドキしながら待っていると、ノミの調教師(?)の登場です。彼がノミの出身地やら名前を紹介し、ショーの開幕です。メインメンバーである一匹のノミと、そのノミを観察するための虫眼鏡が客席を一巡した後、ノミの馬車レース、サッカーの試合と続き、質疑応答でフィナーレ。その間、約10分ほど。あっという間の出来事。
感想は、「これだけ? ちょっと高くないか?これ」。
えー、観劇はオススメ、しません。アシカラズ。話のネタにはなりますが。

ノミのサーカス、HPあるんだね
大人5ユーロ、子供3ユーロ(12歳まで)

※ここからは、独り言なので、興味のない人は読み流してほしい。
ノミのサーカスは、考えてみれば結構なキワモノで、いわば見世物小屋の最後の生き残りといってもいいだろう。確か「犬を見て、自分は人間であると再認識する」と言ったのは寺山修司であっただろうか。いわゆるガリバー世界を体験することにより、当たり前の世界を相対化し、ありえたはずの平行世界を夢想する、もしくは現実世界にそういったドラマツルギーによって異化作用を与え、世界を作り変えていくエネルギーを生み出す、見世物小屋とは、そういった舞台装置だったと言えるし、寺山修司の天井桟敷や土方巽の暗黒舞踏の流れもそこから生まれてきたのではなかったか、と曖昧だが、記憶している。
観客は、ノミがサーカスなんてできるのか、という疑問から興味を刺激され、ほとんど見えないノミのスケール世界を体感し、オクトーバーフェストという別世界の中で、更なる別世界を垣間みる事になる。
あるいは、まるでドラえもんのガリバートンネルのように、大人の視点からノミのスケールへとイメージを飛ばす過程で、舞台一番前の列に陣取っている子供達の視点に自分の視点が重なった時、人はありし日の幼かった自分の見た情景を思い出し、懐かしき日々へ思いを馳せるのではないだろうか。

2019年9月24日火曜日

ヴァイマール 近代建築の揺籃期 ヘンリ-ファン-デ-ヴェルデ

今年、2019年はバウハウス創設から100周年。バウハウスといえば建築家であり初代校長のグロピウスの設計したデッサウの校舎が有名だが、バウハウスはヴァイマールで誕生し、1925年にデッサウに移転するまでの6年間はヴァイマールを本拠地としていた。
自分が建築の勉強を始めた頃、デッサウの校舎のイメージが強すぎて、初期バウハウスがヴァイマールを拠点としていた、ということを知らなかった。
というわけで、今回は、そろそろ自分の生活する国、ドイツの都市について書きたいという気持ちもあり、どこにしようかなーと考えを巡らせた結果、バウハウス100年を個人的に記念して、ヴァイマールを取り上げることにしました(いずれミュンヘンも登場する予定)。



本稿では、バウハウスになる前の学校=芸術工芸学校、その学校の校長であり、かつ学校校舎を設計したヘンリ-ファン-デ-ヴェルデ、彼がワイマールに残した建築、そして初期バウハウスが校内に残した作品を紹介します。

ヘンリ-ファン-デ-ヴェルデ Henry van de Velde 
ベルギー出身のこの建築家は、画家としてキャリアをスタートさせた。しかし、生活を取り囲む物の造形に不満を覚え、身の回りの物全て、つまり食器のデザインから住宅までをも自分で設計してしまい、それをキッカケとして建築家になったという。
彼のデザインは、アート&クラフト運動(イギリス、ウィリアム-モリスを中心にした芸術工芸運動)と日本の工芸デザインから強い影響を受け、生活を囲うグッズの造形の意義を探求し、それらに正しい造形(フォルム)を与えようと試みた。彼のスタイルはアールヌーボーに属し、またバウハウスの校長にグロピウスを推したことから、しばしばアールヌーボーから近代建築への橋渡しをした、と記述されることもある。

バウハウス校舎(旧芸術工芸学校)
1902年、ファン-デ-ヴェルデは工芸アドバイザーとしてワイマールへ招聘され、1907年には芸術工芸学校の校長に就任。その傍ら、二棟からなる南、西側学校校舎(1904-1911年)を自ずから設計している。この校舎は、現在の建築学校「バウハウス」の一部であり、世界遺産にも登録され、見学することができる。

建設当初の写真、南側校舎
南側校舎、ひさし部分のアトリエ窓(壁から屋根にかけてのガラス部分)の造形が面白い。今、このデザインをしようとすると、雨樋と縦樋をどう計画するか、という話になってくる。この建物の場合はつけ柱の横に縦樋がそれぞれ分割されたファサードごとについている(下の写真参照)。うーん、どうなんだろう、と考えてしまうが、建築関係者以外にはあんまり面白くもない話、細かくて申し訳ない。


南側校舎内部

Herbert Bayer, 1923
Herbert Bayer, 1923
南校舎の中には、バウハウス時代にHerbert Bayerによって製作された壁画がある。一方、L字型の西側校舎では、オスカーシュレンマーの壁画を見学することができる(たしか被災し、復元されたものだったという記憶があるが、定かではない)。

西側校舎
西側校舎内部
オスカー•シュレンマーの壁画がある階段

1919年、ファン-デ-ヴェルデから推薦を受けたグロピウスが校長としてバウハウスを開校。その際、上記で紹介した、ファン-デ-ヴェルデ設計の芸術工芸学校の校舎、工房、工具なども、そのままバウハウスに引き継がれた。

南側校舎の中には、1923年に開催された展覧会の際にグロピウスによって設計された、かの有名な“グロピウスの部屋”がある。
ご存知のように、その後、バウハウスはデッサウ、ベルリンへと移転するが、現在のバウハウスはワイマールの地へ戻り、前述のように、引き続きファン-デ-ヴェルデの校舎もその一部として使用されている。
この照明は本当にかっこいい。ちなみに、椅子はチョー座りにくいらしい。
校舎内の見学について
校舎の内部はある程度、自由に見て回る事ができます。
グロピウスの校長室は、Bauhaus Walkというツアーでのみ見学可能。
ツアーチケットは、ワイマールの観光案内所、バウハウスの学校敷地内にあるインフォメーションセンター、もしくはオンラインで購入可能。
見学できる曜日と時間が限定されているので注意。(以下2019年現在)
Bauhaus Walk
4月〜10月、水、金、土曜日。2時から
11月〜3月、金、土。2時から
ロングトリップツアー、大人12ユーロ、学生8ユーロ
ショートトリップツアー,大人7ユーロ、学生5ユーロ
https://www.uni-weimar.de/en/university/profile/bauhausatelier/bauhaus-walk/walk-times-and-prices/ 


ニーチェ資料館 Nietzsche-Archiv
ニーチェが晩年を過ごし、1900年8月25日にこの家で他界した。彼の死後、1902年からヘンリ-ファン-デ-ヴェルデによってインテリアが改装された。“全てをデザインする男”の異名を持つファン-デ-ヴェルデは、照明、花瓶のデザインまで手がけている。

玄関とその脇窓の木質パネル部分が、統一的にデザインされてる。これはちょっと、グッとくるデザイン、というか考え方が面白い。

正しい造形とは、何か。多分に時代的で、かつ恣意的に見えるニーチェハウスのドアノブを見るたびに、客観的な正しい造形というものを創る不可能性に想いを馳せてしまう。

内部はガイドツアーでのみ閲覧可能。写真撮影は2012年当時は許されていなかった。


バウハウスはセンセーショナルに突然、歴史に登場し、あっという間に消えて行ったようなイメージがあるけれど、そこに至までには時代を反映したバックグラウンドがちゃんとあるんですね。大戦最中の1917年、ファン-デ-ヴェルデはバウハウスへの道を踏み固めた後、外国人排斥の気風を受けて、ドイツを去ります。その時点で既に多くのことを成し遂げていましたが、全てをデザインする男にとっては、不完全燃焼だったのではないでしょうか。ドイツを去る彼の胸に去来したものは何だったのか、その後のバウハウスの活躍を見て、何を思ったのか。彼の作品群を見学しながら、その胸の内に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ニーチェ資料館見学について3月後半から:火〜日曜11時から17時
10月後半から:閉館
大人3,5ユーロ、学生1ユーロ
ニーチェ資料館のチケットはこちらから

 バウハウス100周年 2019年はバウハウス100周年。様々なイベントが目白押し。イベント詳細はこちらでチェック。
bauhaus100
ヴァイマールの観光スポット ゲーテ、シラーハウス
ハウス-アム-ホルン
バウハウスミュージアム
アンペルマンショップ
ヴァイマール観光(独)
ヴァイマールへのアクセス 
電車
ベルリン、デッサウ、ドレスデンから2時間半、ライプツィッヒから1時間


2019年9月19日木曜日

マルツェジーネ ガルダ湖 vol.3 バルト山 天上からの眺め

熱帯と寒帯、男と女、天上界と人間界。

突然、対義語を並べてみたが、何事も対になっている方が、物事は面白くなる。 そんな対になるものが、ガルダ湖畔の街、マルツェジーネには二つある。一つ目の対は、此岸と彼岸、つまり東岸の街=マルツェジーネと西岸の街=レモーネで、こちらは船に乗って行き来する。二つ目は山麓のマルツェジーネとバルト山の山頂で、こちらはケーブルカー。

今回は、後者の、バルト山のケーブルカーについて。
街とバルト山の山頂の標高差、実に1750m。暖かい下界で思う存分水浴びを楽しんだら、アクロポリスで涼みながら天上の人となり、素晴らしい眺めを楽しむ。こんな愉楽は滅多に味わえるものじゃない。



僕たちは買い出しなどをしていたら正午を過ぎてしまい、昼食のあとに山麓のステーションに行ったので、長蛇の列だった(朝であれば比較的空いているらしい)。

長い待ち時間を終え,ついにケーブルカーが出発する。遠くに引っ張られていくように、小さくなっていくマルツェジーネの街並み。

途中乗り換えがあるが、乗り換え駅が近付く頃には大きな鏡のような湖面が眼下に広がり始める。乗り換え後の車両は、360度回転するので、窓側のスペースを確保することができれば、まんべんなく景色を堪能することができる。山肌が樹木から岩へと変化し始めると、もう山頂は近い。この合計約15分の間に、世界は劇的に変化してゆく。


山頂に到着したケーブルカーから降りると、ヒヤリとした外気に驚かされた。とりあえずガルダ湖に向かって切り立っている崖からの景色が見たかったので、登りたくないとぐずる次男をせかして、50mほどの道のりを山頂へ向かった。 そこに広がっていたのは、息を飲むような景色。山頂からは断崖絶壁が街に向かって駆け下りていると思っていたがそうではなく、山頂の平地からは急勾配な、といっても転がり落ちたら命をおとすような傾斜ではなかった。だから息子たちと斜面を慎重に降りて、名も知らぬ群鳥が羽を休めていた場所へ向かった。

その場所での最強生物である僕たちの接近に驚いて、一斉に、しかし律儀に弧を描きながら飛び立ってゆく黒い鳥たちを尻目に、僕たちは明け渡されたその場所から、はるか眼下を睥睨する。ちょこんと飛び出した城と、そのまわりにカサブタのようなマルツェジーネの街。


ここからジャンプしたら、ひょっとして一気に街の中心までとんでいけるんじゃないか、もしくはここから石を投げてしまったら、雪崩的に岩が転がり下りて、城の尖塔をボーリングのピンのように破壊してしまうのではないか。そんな小さなスリリングを楽しみながら、しばらく尾根を散策した。



後日、岩の組成について調べてみると、この周辺は堆積岩で、化石もあるのだそうだ。当日は、次男と一緒に、岩肌へ目をこらしながら歩いていたけど、見つけることができなかった。

遠くではハングライダーを楽しむ人々やハイキングを楽しむ人々が行き交っている。
遠くの方で牧歌的な鈴の音が聞こえたので、その方向に行ってみると、白い点々が見えた。近づいてみると羊の群れだった。

正直、バルト山でのハイキングは、さほど期待していたわけでもなかった。むしろ、この街に来たからにはケーブリカーにも乗らねばなるまい、というような義務感のほうが大きかった。しかし、行ってみたらどうだろう。また、あの場所にいきたいな、って気になっている。
次回は、息子たちも、もう青年になっているかもしれない。そうしたら、みんなでハングライダーにでも挑戦してみたい。


※チケットは山麓のケーブルカー駅かマルツェジーネのバス停の観光案内所で買う事ができます。大人往復22ユーロ、子供大往復(14〜17歳)15ユーロ、子供小(14歳未満)10ユーロ。
山頂は空気がひんやりとしているので、上着など持参したほうがいいでしょう。ハイキングをしながら下山することも可。



2019年9月16日月曜日

マルツェジーネ ガルダ湖 vol.2 泳ぐ、ただそのためだけに

今回のガルダ湖の旅の最大の目的は、  泳ぐこと!
それが子供たちの一番の願いだった。
ヴェネツィア旅行なんて、そんなもん、パパのちょっとした自己満足を満たすだけのもの。

旅行のルートを計画する時、ちょっと頭をひねらなければならなかった。
というのも、昨年のマルタ旅行でクラゲに遭遇し、子供たちに海に対するとてつもない恐怖心が芽生えてしまったから。
海はおっかねぇ、ところだぁよぉ〜
と、何者かが囁くらしいのです。
というわけで、今回は淡水湖に泳ぎに行こう!となった。
バイエルンにも淡水湖はたくさんあるんだけどね。休暇になると、なんかちょっと遠くに行きたくなるんだよね。

もちろん、かつての隣人にヴェネツィアビエンナーレ最高だぜ、と吹き込まれていたので、ガルダ湖で泳いだついでにヴェネツィアビエンナーレ行ってくればいいんじゃね?ととも考えた。


暑い文化と日差しのヴェネツィアをささっと通り過ぎ、いざ、やってきました、ガルダ湖。到着した当日はさすがに買い出しなどして泳ぎには行かなかったものの、翌日、早速、水に引き寄せられるように、湖岸へ!
いざ、泳ごうとすると、次男君は、日焼け止めクリームを塗りながら、何度も同じことを聞いてくる。
「くらげ、いないよね?」
「鮫、ここにいるの?」
「ボクを食べられる大きな魚、いないよね?」

「ここは淡水だからいないよ。」
「タンスイってなに?」 こんな場合には、ドイツ語に訳すと理解してくれることがあります。
「ズースヴァッサーだよ!」

それ以上の説明は、長くなるので、するときもあれば、しないときもあり。


これがマツェジーネの湖岸。城をバックに遊泳できるのは、とってもピクチャレスク。


周辺の山の景色もハンパありません。バックに広がるのは、アルプス。アルプスのイタリア側だから、プレートに押されて隆起したアルプスの一番はじっこの方。凄まじい力で押されて隆起したもんだから、たまーにとんでもなく面白い景色があり、山裾にはぶどう畑、オリーブ畑が広がっている。

息子たちは、地元の子供たちに混じって、浮き島から水中にダイブ。


夕暮れが近づいても、おかまいなし。鮫などいないので、この湖岸最強の生物として君臨しているのだ。


日が本格的に傾いてきた、しかし、浮き島にはまだ、息子たちが。


完全に闇に包まれる前に、帰宅の途へ。石の護岸の上を競争しながら走って行く。


 スガリジェロ城から見下ろした遊泳場。こちらは、街の北側。手前に見える湾の一番端っこにあるのが、僕たちが泳いだ遊泳場。

2019年9月14日土曜日

マルツェジーネ ガルダ湖 vol.1 ゲーテの心を動かした街が、今もドイツ人を引きつける

ガルダ湖はイタリアの北部にあり、ベローナからは約30分から一時間、ヴェネツィア、ミラノからも2〜3時間弱の距離にある、イタリア最大の湖。北、東と西は急峻な崖に囲まれ、壮大な景色が広がる。アルプスからの氷河が大地を削り、その窪みが湖になった。東西の山麓は東はオリーブの里、西はレモンの里といわれている。
今回、僕たちが訪れたマルツェジーネは東に位置し、急峻なバルト山の麓にある。

街はランゴバルド族により建設され、その後フランク族の支配下に入った。中世、この一帯を支配したのはベローナを拠点にしたデラ-スカラ家。デラ-スカラ家は幾つかの城を湖畔に持っていた。そして、マルツェジーネのシルエットを決定づけることになるスカリジェロ城の改築を積極的に押進めた。
小さな街だけど、多くの著名人が街を訪れている。その中でも特に有名なのがゲーテだろう。
ゲーテは1786年9月、ガルダ湖の北、トルボレから船に乗って、リモーネ(今はレモンの里になっています)を経由して南下。向かい風に押し戻され、この街に停泊することになった。偶然の出来事であったらしいが、マルツェジーネの風景に魅了され、幾つかのスケッチを残している。ゲーテがスカリジェロ城をスケッチしていた時のことである。多くの住人が、この外人はここで何をしているんだ?と集まって来る。人々の通報により警吏がやってきて、ゲーテに尋問をはじめた。
「なんで、この場所をスケッチしていたのだ?」
「この城を廃墟だと思ってスケッチしていたんですよ、問題あります?」
とゲーテ。
「廃墟というなら、なんでそんな意味のないものをスケッチしていたんだ?」
と詰問する警吏。
「でも、バーバリア人に廃墟にされたローマという地を、今でも多くの人が訪問してるじゃぁないですか」


この城は当時、ヴェネツィア共和国とオーストリアの境界となっていたので、オーストリアから派遣されたスパイと勘ぐられたのだった。しかし、後からやってきた警吏の上司がゲーテの故郷、フランクフルトに滞在した経験があること、ゲーテの教養の深さに感銘を受けたこと、そしてゲーテが彼の質問に丁寧に対応したことなどから、
「説明の通り、教養深いこの人は、彼の見識を広げるための旅行をしている文化人に間違いないだろう。彼が故郷に帰ったら、この美しいマルツェジーネをドイツ人に宣伝してくれるにちがいない」
といって、ゲーテに、マルツェジーネでの自由な行動を許した。

このやり取りを見守っていた観衆や、上司の人柄、素晴らしい風景、そしてピクチャレスクな城にゲーテはとても感銘を受けたようだ。そして上記のいきさつは「イタリア旅行」に記述され、現在も僕たちが目にする事ができ、今でもドイツ人をこの地に惹き付けているのだから、歴史というのは面白い。
その他にも、1909年にはカフカが訪問、画家クリムトはこの地を訪れ、幾つかの絵画を残している。

坂道の多い街並。坂道を下ると、湖畔に出る。港や小舟を係留する小さな入り江。






街から北、もしくは南へ湖畔に沿って、遊歩道が伸びている。夕凪の中、アイスを食べながらそぞろ歩きしてもいい。僕たちは、毎日、夕闇が迫るまで泳ぎ、落日の中、街に帰った。


この街並みが他のヨーロッパの街に比べて特に美しい、という訳ではない。しかし、街を包み込む風景が素晴らしい。そして、その風景の中で、街の佇まいが輝きを増している。